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今年の3月25日に亡くなった「黒澤浩樹」という空手家をご存知でしょうか?
なぜ急にこの記事を書くことにしたのかは、デイリー新潮で大山倍達総帥と黒澤氏の記事を読んだからです。この黒澤氏は54歳の若さで急性心不全で亡くなりましたが、とにかく強かった。
一時期K1にも出ていましたが、身長は174cmと格闘家としては小柄なため苦戦していたのを覚えています。黒澤氏は、あまりの強さに「超人」「格闘マシーン」とも言われていました。また、試合中に手の骨が開放骨折で露出しても、戦い続けたのは有名な話です。
私はほとんど年齢が違わないのですが、その下段蹴りに魅せられて本を買って練習したものです。
『超人』黒澤が優勝したのは1回だけ
黒澤選手の全日本選手権大会での優勝はデビュー戦の1984年に開催された第16回の全日本大会1回のみです。
彗星の如く現れた、城西支部の黒澤選手がアレヨアレヨという間に決勝戦まで進み、竹山選手に圧倒的な判定勝ちをして優勝したのです。
それ以降黒澤選手が優勝できなかったのは、その試合を見た大山倍達総帥が、その後黒澤選手を勝たせないように画策したからだというのです。
まさしく本当なら、私たち格闘技ファンにとって衝撃の新事実です。( ͡° ͜ʖ ͡°)
今話題の黒澤浩樹動画はこちら!https://t.co/i8OTBPGAtD#黒澤浩樹 pic.twitter.com/AVeWFeYAQM
— 話題の動画速報 (@good_partner9) 2017年3月29日黒澤選手は城西支部
極真カラテの城西支部といえば、今でこそチャンピオンを多数出している有名な支部ですが、その当時は大山総帥はそんな地方の支部は知らなかったとのことです。
そして、極真カラテがルールのある「華麗なカラテ」を目指していた時期のようですね。
大山総帥はパワーで押す昔のようなカラテをする黒澤選手を疎ましく感じたようです。
さらに、黒澤選手は大山総帥と会っても目をそらさなかったくらい気が強かったのも気にいらない原因だったとのこと。
1回目の優勝以外は、審判もグルになって澤選手を勝たせないようにしたというのですが。( ´Д`)y━・~~
淡々と攻め続けるスタイルが格闘マシーンと呼ばれてました。圧倒的な強さと下段蹴りがいつまでも記憶から消えることはないでしょう。#黒澤浩樹#日本狼#格闘マシーン
— くも(元cgbh) (@2gbh4) 2017年3月29日
↓は電子版もあるようです。
歯に衣着せぬ発言が魅力です。 pic.twitter.com/SUXe8VBcDd極真カラテはもともとは本当の「喧嘩カラテ」
極真カラテは、今でこそ「フルコンタクトルール」ができて安全?に試合をしていますが、元々は顔面あり、目潰し、金的ありのなんでもありの喧嘩カラテでした。
私が大学の時にはすでにフルコンタクトルールができていましたが、大学の肩で風を切って歩いている空手部の強面が、極真とは関わるなとブルっていたのを今でも覚えています。(^ ^)
自分たちは、拳や蹴りを当てずに試合を行っているのに、本気で素手、素足で思いきり殴る蹴るをしているカラテは彼らにとって、カラテであって空手ではなかったんでしょう。
その中でも、下段蹴りで相手の骨を折った「極真の黒澤」はまさしく「人間ではないもの」でした。
それが本当なら酷い話だが
極真と名がつく流派は今では14以上あります。
そこから分裂、独立した流派は20以上もあります。
私は「新極真会」に4年在籍していましたが、その中で実際に大山総帥にあったことがある先輩が何人かいました。
大山総帥はかなり偉かったようで、遠くから見たくらいらしいですが。
よく空手の流派について質問されるのですが、空手の流派というものは大きな大会で優勝したり強ければ柔道とか剣道と違って「自分の流派」を起こすことが可能なのです。
そのため、極真空手の道場のすぐ横に極真空手の道場があるという現象も起きてしまいます。
強ければ強いほど人の上に立ちたいのが「空手家」ですから、大山総帥にとって当時の黒澤選手は「出る杭」だったのかもしれませんね。( ͡° ͜ʖ ͡°)
最後まで読んでいただきありがとうございます。
大山総帥と喧嘩10段「芦原 英幸」氏との話も面白かったので後日記事にしようかと思っています。